先生という人
内田樹氏の「先生はえらい」を読みました。
今まで、先生というものをちゃんと考えた事なかったように思います。
えらい先生はいるか。
はい、いません。
はい、なの。いいえ、なの。どっち。
分からない答えになってしまいましたね。
えらい先生はいないのです。
先生そのものがえらいのです。
目次
万人が尊敬できる先生は存在しない
私はヨガの先生をしています。
ティーチャーでもインストラクターでも言葉は何でも良いのですが、私は先生やティーチャーを好んで使っています。
先生っていうのが良いですよね。
気分が上がります。
これまでは圧倒的に学ぶ方が多かった
さて、私は今まで、教える事より、教わる事の方が多かったです。
その中で私は、先生や師と呼べる人に恵まれてきました。
先生が好きだったし、先生も好きでいてくれてると勝手に思っていましたし、尊敬できる先生にも複数人出会いました。
とてもラッキーだと思っています。
今の時代、先生というものが昔と比べ全く別のもののように感じます。
話を戻して、その私が尊敬できる先生を苦手だったり嫌いと言う人がいました。
当時の私にはその事がよく分からなかったです。
本当に分からなかったです。
この先生を嫌いな人がいるなんて信じられない、と思っていました。
片や尊敬、片や嫌い。
おかしな話しですよね。
そうなんです。
内田樹氏は言います。
誰もが思う良い先生、尊敬できる先生なんていないのですよね。
そんな先生は存在しないのです。
先生が教壇に立って同じことを教えても、聞いてるこっち側、生徒はそれぞれに違うことを学んでいるのです。
一つのことを教えても、解釈や感じ方は学ぶ人間の数だけ存在するのですね。
それは学ぶ側一人一人に個性があるように、その人の器に合った、学びの主体性や独創的な言葉や感じ方に置き換えられてるのです。
どんな先生に魅力を感じるか
私の場合ですが、
やはり、どれだけドキドキワクワクさせてくれるか。
ではないでしょうか。
ドキドキワクワク、恋に似てますね。
恋も始めはドキドキワクワクしますよね。
でも慣れてくるとその感情が小さくなったりしてきますよね。
なぜでしょう。
分かっちゃうからですよね。
分かっちゃうからドキドキワクワクしなくなるんだと思います。
好きな相手を分かりたい知りたいって思っていたはずなのに、いざ知ってしまうと興味がなくなるなんて、人間って面白いですよね。
先生は何を教えてくれているか
魅力を感じる先生はドキドキワクワクさせてくれる先生の事。
ドキドキワクワクするのは分からない状態のこと。
先生は教える人のこと。
先生が教えない事、分からない状態でいさせる事で魅力的になる。
ということですよね。
魅力的な先生とは学ぶ側に誤解させ空想させ、いかに想像を駆り立てさせるかにあるのだと思います。
ただし、数学など答えが決まっているものにおいては答えを出すとかなりテンション上がります。
(私のパーソナルカラーが青「知識」なもので)
私の「先生はえらい」論は、「えらい先生とはこれこれこういうものである」というような認知的なものではありません(そんなことを言っても何も始まりません)。
あるいは「いいから黙って先生の言うことを聞きなさい」というような政治的なものでもありません(そんなことを言っても誰も聞いちゃくれません)。
そうではなくて、「先生」というのは定義上「えらい」ものである。あなたが「えらい」と思う人、それが「先生」であるという必勝不敗の同語反復を断固主張するところの書物なのであります。内田樹 ちくまプリマー新書 より
学ぶことを欲するものしか学べない
そして、学ぶ側は自分の聞きたい事、学びたい事しか学びません。学べません。
ヨガのクラスでも、同じ様な質問を何度もしたって経験ありませんか。
先生はいつもほとんど同じ事を答えてくれます。
いつも同じ質問と答えなのに、自分が分かるタイミングでしか分かりませんよね。
自分には何が足りないかが自分自身で分かっているのです。
そして、学べた時に学ぶのであって、学ぶ前には学ぶものが分かっていないのです。
だから先生ってすごいんです
自分が”こうありたい先生”の姿でいさえすれば、それだけで十分なのです。
こちらが何を教えても学ぶ側次第で学びたいものを学んでいくのです。
それくらいの余白を与えなければならないと思っています。
だからと言って怠惰でいろということではありません。
万人に受け入れられようとか、生徒の顔色伺うような事はしなくて良い。
するなって事ですね。
だってあなたが先生であるだけですごいんですから。